「『芸術と福祉』施設を集合知で立ち上げる」
2018.6.29、タカハシ ‘タカカーン’ セイジ

プロジェクト「『芸術と福祉』をレクリエーションから編み直す」は2017年初頭より1年間の活動を経て、福祉施設を立ち上げ、運営したくなりました。

ひとまずは個人で法人格を取得してつくることから考えはじめてみますが、既存法人の新規事業として行う展開も期待します。

いつ
・今から2年後には立ち上げたいと考えています。
どこで
・大阪を想定していますが、引き合いがあれば全国どこへでも移住する所存です。
だれが
・立ち上げ
ぼくと賛同者数名
・立ち上げた後
ぼくが施設長になり、制度上最低人員のスタッフとともに、
利用する障害のある方や後見人をはじめ、芸術家や芸術および福祉の専門家、などなどと。
なにを
・作業所(就労継続支援B型事業所)を想定しています。
・コンセプト
「『障害者』が支える舞台芸術」 「『(意味のある)失敗』を肯定する新たな舞台・劇場環境を創設し、作品を進歩させる」 「アート・スペースの持続可能性を追求する」 「福祉で認められる芸術(に関する仕事)の価値(反対も)、その効用から両者の協働可能性をひろげる」
・具体的には
福祉制度のもとパフォーミング・アーツ、アートを考え、実践する場をつくります。
 舞台運営をするのは、施設職員および利用者。
  照明、音響、チケットもぎり、カフェ、掃除、ディレクターなど。
 施設を利用するアーティストは、
  ex.滞在(共同)制作、稽古、イベント実施、職業体験、カフェ・マスター、など。
なぜ
「なにを」とかぶりますが、
 障害者が作家にならなくてもいい、かもしれない。
 アーティストや健常者が支える、とは違う形をみてみたい。つくってみたい。
 語弊を恐れずに表現すると、障害者が健常者に光を当てる側になるということ。
 ※以下、「いい」と読んだら「、かもしれない」を加えてみてください。
  障害者が、たとえば作家になる前の下準備として芸術に関する知識習得や職業経験をしておくのもいい
  舞台・場を下支えすることが、ある人にとってはいい
  未だないような劇場・舞台があってもいい
   舞台を形作る環境に障害がある人がもっといてもいい
    それは舞台に立つアーティストにとって良い刺激となる、はず
     作家の持つ既存の作品にも新作にも新たな発見や価値を見いだせる、はず
  未だ一般化されていない芸術の仕事が福祉を通して知ってもらえるといい
どのように

立ち上げ方は、「集合知」でいきたく、「そんなの無理やわ」「難しい」に打破するためにも、「福祉(と芸術)」施設の「つくりかた」をぼくと参加者(あくまでもひとまずは、学ぶメンバーとして)で知識蓄積や方法論の確立を行い、つくっていく最中に獲得したことを半ば公にオープンにしていきたいと考えています。以下のことが大項目としてやることかなと。ぜひご同行ください。ご連絡お待ちしております。

  • 試演
  • 制度理解
  • 全国の施設リサーチ(「芸術と福祉」施設をレクリエーションから編み直すためのツアー)
  • 物件探し
  • 資金調達
  • 物件取得と建築
以上

2017年度よりスタートするこのプロジェクトですが、
具体的な内容については、決めざるをえないことしか決めていなくて。
今のところ、決定済み実施対象がNPO法人おひさま さんさんくらぶ(放課後等デイサービス事業所)ということとプロジェクトメンバーのみです。
しかしながら、メンバーや実施会場の選定および依頼→承諾という結果からだけでも、ある程度のヴィジョンを提示できているのではないかとも思います。プロジェクトメンバーは、捩子ぴじんさん、秋田光軌さん、アサダワタルさん、池上綾乃さん、持木永大さん(依頼順)、そしてです。

大きな特色としては、僕自身が実施会場である「さんさんくらぶ」という福祉施設の職員でありながら、「芸術」側のプロジェクトを編成する立場であるということが挙げられます。さらに自ら表現者であるということ。その狭間における気持ちの揺れ、うまれた問いについて記録し公開することは、今後のこのふたつの関係性を普遍化する鍵、語られなかった真理となるようなものを表現することになるのではないか。だいそれているのかもしれませんけれども、僕はその想いに突き動かされています。

そして、いかに「芸術」側が「福祉」に対して、搾取的な姿勢で物事を動かそうとしているのかを自覚しつつ、搾取に可能な限りならぬ可能性があるのか。「福祉」を語ることは不在への配慮であるという考えが僕の中にはありますが、そもそも今、今までの両者の関係とはなんだったのかを問うことからこの取り組みをスタートします。
例えば日本においての「アール・ブリュット」概念の成立と流布、現在の存在と是非。
よいこともわるいこともあると思っています。もちろん現状のよいことだけを選択していくと、よいことが既に定義されすぎていて選択の余地が限られているとも思うのです。
だから、今回は、わるいこと、そしてよいこととわるいことの他を考え、実践し、それをメソッドとしてでなく表したい。

今年度試みたいことは、下地を確かめるためのことをしたいと考えています。
とある福祉施設を「集落」と見立て、そこで交わされる言語・非言語コミュニケーションおよび環境全てを「方言」だと捉えてみることとします。それを「習う」ということで我々が関わることは、やさしい(優しい、易しい)ことなのだろうか。その集落そのものを「民俗芸能」、あるいは方言を「振付」などと呼んだ場合、「福祉」側にいる人たちはどう感じるのだろうか。また、そのような「型」はありうるのか。あとは、ここ最近浮かんだ条件としてメンバーは、提示したフィー未満の仕事をそれぞれで線引きし上記試みや各々の能動的挑戦に取り組んでほしいということですね。「福祉」と「芸術」をレクリエーション、反転して仕事で編み直せないかというアイデアが浮かんでいます。

断片的に書き連ねていますが、これまでの僕と福祉との関わりは、滋賀県社会福祉事業団(現 グロー) 企画事業部に所属し「糸賀一雄記念賞第十一回音楽祭」の企画運営、次に、はたよしこ氏が主宰する「すずかけ絵画クラブ」、一羊会 (武庫川)すずかけ作業所内「あとりえすずかけ」職員として創作補助等で関わりました。そして現在、表現者として「めくるめく紙芝居」に継続参加しています。そういえば余談ですが、子どものころベッドタウンというべきか田舎(三島郡島本町)に住んでいたころ家であるマンションの道挟んだ向かいにあったのは確か作業所だったな(きっと今もある)という記憶を時々思い出すようになりました。その頃感じた違和感というか、周りの友人や大人がそこにいる人を遠ざけているようで、そのことのわからなさ、感情が尾を引いているように思えます。特に交流があったわけではありませんが。

では、遅くとも今、何を問うべきか。
今までの「福祉」「福祉と芸術」の歴史とも出会い直したいと思っています。また、期間中さまざまな方と話をしたいと考えています。
現時点では、来年度以降、冊子(本?)、映像メディア等で発表したいという野心がありますが一旦は横に置いておきます。
ところどころでも構いません。このことについて気に留めていただけたなら、そしてここから「強い」結びつきがうまれたら、とても幸いです。